🖋|今回とりあげる短歌

<aside> 💐 右胸が花器だとしてもだれひとり飾ることなく啜る生水/肺

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細長い花器が坐っている。何も生けられていない、生ける予定のないつめたい花器が。 それがいま、わたしに見えているまぼろしである。

今回の一首について、一杯の水道水を飲んでいる主体の状況を、主体自身が俯瞰している景と読んだ。具体的な状況は結句のみで端的に示され、それ以前は主体の心情描写に徹している。この構造が巧みで面白い。そしてなにより、静物画のような景の奥に凄みを感じて、この一首へ筆を取った。 主体は自身の右胸を花器になぞらえ、その花器に注ぐように水を飲んでいる。花器はもちろん右胸だ。左胸にはどくどくと脈打つ心臓があり、そこに花を生ける余地はない。

その上で、「だとしても」と描写は続く。水を注いでも、どんな花も飾ることはないのだと云う。そう、主体は自身の空虚を、何者かによって安易に埋めることを選ばない。二句目三句目のda音の連続、そして定型遵守のリズムは主体の強い意志を感じさせる。主体は胸の空虚を空虚のままにして飾り立てず、静かに護りながら生きてゆくのだろう。背景は明らかでないが、主体は美しい花器として他者を受け入れるよう進言されたことがあったのかもしれないと想像した。あるいは過去に受け入れた結果、他者を生かす花器としての自分に違和感が拭えなかったか。いずれにせよ、主体が花器として他者を受け入れるべきか自身に問いかけた先の、答えがこの歌なのだろう。そう読んだとき、主体の決心の切実さに息を呑んだ。 結句を再度読みなおすと、単に水を飲むのではなく「生水」を「啜る」とある。カルキ抜きや消毒ができないとしても、そこにあるものをそのまま血肉に変え生き延びようという気概がある。その気概が水を飲む現実の動作に重なり、わたしたちに迫りくる。 主体の切実な決意に、わたしは思わず目を閉じた。おそらく孤独な主体のゆく道に、温かなひかりがありますようにと。

花器のまぼろしは、ただ冴え冴えとまなうらにある。

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